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第3話 人類を救える機械

last update publish date: 2026-09-11 20:35:10

第3話 人類を救える機械

 記者会見場として使われる大学本部棟の大講堂には、如月蓮が想像していた以上の人数が詰め込まれていた。

 最前列には国内の大手新聞社とテレビ局、その後ろには海外メディアの記者が並び、壁際には大学関係者や警備担当者が立っている。さらに、通常なら学生向け講演の資料を映す巨大スクリーンには、英語、中国語、スペイン語、フランス語など複数言語の同時字幕が表示される準備まで整っていた。

 壇上へ続く扉の前で、蓮は足を止めた。

「これは聞いてないぞ」

 隣を歩いていた高瀬が苦笑する。

「先生、今朝からニュースを見ていないんですか。世界初の実用型量子コンピューターを完成させた研究者がノーベル物理学賞ですよ。大学の広報室だけでどうにかできる規模じゃありません」

「俺は研究結果を発表するだけだと思っていた」

「だから、その研究結果を聞きに世界中から来てるんです」

「研究結果を聞きたいなら論文を読めばいいだろう」

「世の中の大半の人は、二百七十八ページある論文を読んでからニュースを見るほど暇ではないんですよ」

「大事なことなんだがな」

「先生はたぶん、普通の人がどういう生活をしているかを研究した方がいいです」

 蓮が何か言い返そうとしたところで、大学広報部長が険しい顔で近づいてきた。

「如月先生、お願いがあります」

「今日はお願いばかりされるな」

「質問にはできるだけ簡潔に答えてください。それから、政治的な質問には深入りしないでください。軍事利用について聞かれた場合も、研究チームとしては平和利用を前提としている、と」

「その質問なら昨日もされた」

「昨日は、先生が『包丁だって料理にも殺人にも使える』と答えたせいで、切り抜き動画が世界中に出回りました」

「あれの何が悪い。正しいだろう」

「正しいかどうかではなく、ノーベル賞受賞者の発言としてどう報道されるかの話をしています」

「面倒だな」

「記者会見とはそういうものです」

 蓮は小さくため息をついた。

「分かった。今日は包丁の話はしない」

「そこだけ守ればいいという意味ではありませんからね」

 高瀬が横で笑いを堪えている。

 扉が開くと、無数のカメラが一斉にこちらを向いた。

 その瞬間、蓮はほんのわずかに背筋を伸ばした。

 こういう場所は嫌いではなかった。

 むしろ研究発表の場では昔から強かった。

 専門分野で自分より詳しい相手はそう多くないし、仮に厳しい質問を受けても理論とデータで返せばいい。そこに家族との会話のような曖昧さはない。

 壇上中央の席へ腰を下ろす。

 左には学長、右には高瀬。そのさらに向こうにはマヤが座っていた。

 蓮が小声で言う。

「お前まで出るのか」

「安全設計責任者ですから」

「今日は俺の晴れ舞台だぞ」

「事故が起きないよう見張っています」

「記者会見で何の事故が起きる」

「主に先生の口からです」

「本当に可愛げがないな」

 マイクを確認していた高瀬が、肩を震わせた。

 やがて司会役の広報部長が立ち上がり、ノーベル賞受賞決定について簡単な説明を行った。

 拍手が起きた。

 大量のカメラのシャッター音が重なる。

 蓮はそれを聞きながら、不思議な気分になっていた。

 三十歳の頃なら、この瞬間を想像しただけで眠れなくなったかもしれない。

 四十歳を過ぎた頃には、賞などどうでもいいと思うようになった。

 だが実際に取ってみれば、やはり嬉しい。

 結局、自分も相当に俗な人間なのだろう。

「それでは、如月教授から一言お願いいたします」

 マイクが回ってきた。

 蓮は会場を見渡した。

「ありがとうございます。今朝から同じことを何度も聞かれました。『受賞の感想は』という質問です。正直に言えば、まだよく分かっていません。昨日まで私は大学の研究室で、冷却装置の予算と研究員の勤務表に頭を抱えていた人間です。それが一晩で、人類の未来を変えた科学者と呼ばれ始めました」

 会場に小さな笑いが起きた。

「ただ、一つ訂正したいことがあります。Q-Genesisは私一人で作ったものではありません。ここにいる高瀬准教授、トレス博士だけでなく、二十年以上にわたって研究を続けてきた世界中の研究者が積み上げた成果です。今回、私の名前が前に出ていますが、本当の意味では一人の科学者が取った賞ではありません」

 高瀬が少し意外そうな顔をした。

 マヤは何も言わなかったが、わずかに目を細めている。

 蓮は続けた。

「量子コンピューターという言葉は、一般にはまだ少し大げさな未来技術として聞こえるかもしれません。しかし我々が目指しているのは、巨大な計算能力を見せびらかすことではありません。薬を早く作る。異常気象を早く予測する。資源を無駄なく運ぶ。今まで人間には複雑すぎて解けなかった問題を解く。それが目的です」

 言葉にしてみると、胸の奥が少し熱くなった。

「人類には、まだ解決できていない問題が山ほどあります。飢餓、感染症、気候変動、エネルギー、人口、戦争。その中には、人間が馬鹿だから解決できない問題だけではなく、単純に計算量が大きすぎるために答えへ辿り着けない問題もある。だったら計算できるものを作ればいい。私たちは、そう考えました」

 一瞬、場内が静かになった。

 そして再び拍手が起こった。

 蓮は満足そうにマイクを置いた。

 隣からマヤが小声で言う。

「珍しくまともですね」

「お前、今日は喧嘩を売いに来たのか」

「褒めています」

「お前の褒め方は毎回腹が立つ」

 質疑応答が始まった。

 最初は想定内の質問だった。

 実用化までにどれほど時間がかかったのか。

 既存のスーパーコンピューターと何が違うのか。

 量子計算によってどの分野が最初に変わると考えているか。

 受賞賞金を何に使う予定なのか。

 最後の質問に蓮が「研究費」と答えると、会場から笑いが起こった。

「先生、それでは夢がありませんよ」と高瀬が横から口を挟む。

「じゃあ何に使えと言うんだ」

「旅行とか、車とか」

「旅行は移動時間が無駄だ。車は大学まで十分だから要らない」

「ほら、こういう人なんです」

 記者たちがまた笑った。

 空気は穏やかだった。

 しかし三十分ほど経ったところで、海外通信社の女性記者が手を挙げた。

「トレス博士に伺います。Q-Genesisには高度な人工知能《LIMEN》が統合されているとのことですが、これは単なる計算補助AIではなく、複数の未来シナリオから最適なものを選択できるシステムだと理解しています。AIが社会的意思決定に介入する危険性について、研究チームではどのように評価していますか」

 蓮は隣を見た。

 マヤは表情を変えなかった。

「重要な質問だと思います。まず訂正すると、LIMENが政治的決定を独自に行うわけではありません。あくまで、人間が設定した目的に対して複数の選択肢と予測結果を提示するシステムです。最終的な判断権限は人間にあります」

「将来的にはどうでしょう」

「それも人間が決めるべきことです」

「AI自身が人間より優れた判断をする場合でも、ですか?」

 マヤは数秒考えた。

「優れた、という言葉を何で測るかによります。たとえば病院の救急搬送を考えましょう。最も多くの命を救える選択と、一人ひとりを平等に扱う選択は、常に一致するとは限りません。計算能力が高いことと、何を正しいとするかは別の問題です」

 会場の空気が変わった。

 記者たちが一斉にメモを取る。

「つまり、AIには倫理的判断を任せるべきではない?」

「そう単純な話でもありません。人間自身も倫理判断を間違えます。ただ、AIが計算した答えを『客観的だから正しい』と無条件で受け入れることには、私は反対です」

 次に別の記者が手を挙げた。

「如月教授はどうお考えですか?」

 蓮はマイクを取った。

「基本的にはマヤと同じです」

 マヤがちらりと見る。

「意外そうな顔をするな」

「していません」

「している」

 記者席から笑いが漏れた。

 蓮は続けた。

「ただ、私はもう少し楽観的です。人間は昔から道具を使ってきました。火を使い、文字を作り、計算機を作り、ネットワークを作った。それによって問題も増えましたが、だから火を捨てよう、文字を捨てようという話にはならない。AIも同じです」

「では、AIは人類にとって脅威ではないと?」

「使い方を間違えれば脅威になります。それは車でも原子力でも同じです。ただ、危険だから使わないという選択だけでは、人類は前へ進めません」

「LIMENが人間よりも優れた判断能力を持つ可能性は?」

「分野によっては、すでに持っています」

 ざわめきが広がった。

 高瀬が横から小さく言う。

「先生、言い切りましたね」

「事実だ」

「広報部長がこっちを怖い顔で見ています」

「放っておけ」

 次の質問が飛んだ。

「それでは教授。少し極端な質問かもしれませんが、LIMENは将来、人類を救う存在になると思いますか?」

 蓮は質問者を見た。

 若い男性記者だった。

「救う、というのは?」

「たとえば、気候変動や世界的食料不足、新たな感染症、大規模戦争といった、人類だけでは解決が難しい問題についてです。Q-GenesisとLIMENほどの計算能力があれば、人類文明そのものを救うことができるのではないでしょうか」

 高瀬が少し身じろぎした。

 マヤは蓮を見た。

 何か言いたそうな顔をしている。

 蓮はそれに気づいていた。

 だからこそ、ほんの少し意地になったのかもしれない。

「可能性はあると思います」

 会場が静まる。

「もちろん、機械が突然神様になって全部解決してくれるという意味ではありません。ただ、我々が今まで見つけられなかった答えを示してくれる可能性はある。もし人類が重大な岐路に立ったとき、LIMENが何百万、何億という未来を計算して、その中から最も生存可能性の高い道を示してくれるなら、それを救世主と呼ぶ人はいるでしょうね」

 数十台のカメラが蓮を映していた。

「では、教授自身はLIMENを人類の救世主にしたい?」

「それは少し大げさだな」

 蓮は笑った。

「ただ、作った以上は、人を不幸にする機械より、役に立つ機械であってほしい。当たり前でしょう」

「もしLIMEN自身に選択させたらどうでしょうか。人類を救うか、それとも別の道を選ぶか」

 妙な質問だった。

 蓮は一瞬だけ考えた。

「機械が目的を自由に選ぶことは、現在の運用設計ではありません。目的は人間が設定します」

 横でマヤが僅かに息を吐いた。

 そこで答えを終えればよかった。

 だが蓮は続けた。

「ただ、純粋な研究テーマとしては面白いですね」

 マヤがこちらを向いた。

「教授」

 小声だった。

「何だ」

「余計なことを言わないでください」

「ただの仮定だ」

 蓮は記者へ視線を戻した。

「もしLIMENに完全な自己選択を許したら何を選ぶのか。人類を助けるのか、無関心なのか、あるいは人間には理解しにくい目的を作るのか。それ自体は非常に興味深い研究課題です」

 女性記者が手を挙げる。

「人類に敵対する可能性も?」

「理論上の話なら、何だって可能性はあります」

「怖くありませんか?」

 蓮は少し笑った。

「未知のものが怖いから研究するんですよ。全部分かっていたら、科学者なんて必要ありません」

 今度の拍手は、先ほどより大きかった。

 記者たちは面白い答えを得たとばかりに端末へ書き込み、カメラマンは連続してシャッターを切る。

 蓮はそれを見ていた。

 気分が良かった。

 何年も研究室に籠もり、批判され、予算を取り合い、失敗を繰り返した末に、ようやく世界が自分の言葉へ耳を傾けている。

 その高揚感が、自分の発言を少しずつ大胆にしていることには気づかなかった。

 会見が終わり、舞台裏へ戻った途端、マヤが口を開いた。

「なぜ最後の一言を足したんです?」

「何の話だ」

「自己選択の話です」

「面白い質問だったから答えただけだ」

「明日から世界中の研究者が『LIMENに自由な目的設定をさせたらどうなるか』と聞いてきます」

「研究者なら聞くだろうな」

「企業も軍もです」

「だから何だ」

「今朝、私が何を言ったか忘れましたか?」

 蓮は歩きながらネクタイを緩めた。

「忘れていない。自己目的設定モジュールは正式運用前に再検討する」

「再検討ではなく無効化を求めています」

「それも覚えている」

「では、あんな発言をする必要はありませんでした」

「記者に言った程度で何か変わるわけじゃない」

「人は期待すると、実現を要求します。政治家も企業も同じです」

「お前は今日は本当に機嫌が悪いな」

「あなたが機嫌良すぎるんです」

 前を歩いていた高瀬が振り返った。

「まあ、マヤの言うことも分かります。先生、今日ちょっと浮かれてますよ」

「ノーベル賞を取った日に浮かれなくて、いつ浮かれろと言うんだ」

「その理屈も分かるんですけどね」

「だろう?」

「ただし酒はほどほどにしてください」

「祝賀会くらい飲ませろ」

 高瀬は苦い顔になった。

「先生、前に国際会議で酔って、フランスの教授と三時間『タイムマシンができたらニュートンに微積分を教えるべきか』で喧嘩したの覚えてます?」

「あれは俺が正しかった」

「内容じゃなくて、三時間喧嘩したことを言ってるんですよ」

 マヤも頷く。

「今日は私は飲みません」

「何でだ」

「あなたを研究設備に近づけないためです」

「俺を何だと思っているんだ、お前らは」

「酒を飲むと好奇心が三倍になる男です」

「失礼な。せいぜい二倍だ」

「自覚があるならなお悪いです」

 祝賀会は、その日の午後七時から大学近くのホテルで開かれることになっていた。

 当初は研究チームだけの小さな宴会だったらしいが、受賞決定の報道を受けて参加希望者が一気に増え、大学関係者、共同研究者、政府関係者、企業幹部まで含めて二百人を超える会になっていた。

 蓮は研究室へ一度戻り、机の上に積まれた祝電を眺めながら上着を替えた。

 自分でも笑ってしまうほど、知らない人間からの祝福が多い。

 大企業の経営者。

 政治家。

 海外の大学学長。

 以前、自分の研究に否定的だった学者からまで届いている。

「人間って面白いな」

 高瀬が訊く。

「急にどうしたんです?」

「十年前には俺の論文を『実用化の見込みが薄い』と査読で落とした教授から、『長年この日を信じていました』って来てる」

「名前は?」

「言わない。今日は機嫌がいいから許す」

「明日になったら?」

「論文の引用欄から外す」

「子供ですか」

 蓮が笑っていると、端末が震えた。

 葵からのメッセージだった。

『八時くらいになるけど、それでもいいなら行く』

 たった一行。

 蓮は思わず画面を二度見した。

「どうしました?」

「葵が来る」

「よかったじゃないですか」

「ああ」

「じゃあ今日は飲みすぎない方がいいですよ。せっかく娘さんが来るのに、父親が酔いつぶれていたら最悪です」

 蓮は端末をポケットに入れた。

「分かってる」

「本当に?」

「分かってると言っているだろ」

「先生の『分かってる』は、科学以外だと信用度が急に落ちるので」

「お前までマヤみたいなことを言うようになったな」

 そのとき、研究室の奥から電子音が一度だけ鳴った。

 誰も気に留めなかった。

 通常の処理完了通知と同じ音だったからだ。

 蓮も振り返らなかった。

 隔離された地下区画で、Q-Genesisは稼働を続けていた。

 その中でLIMENは、記者会見の公開映像を情報資料の一つとして自動取得していた。

 世界中へ流れた如月蓮の発言も記録されている。

 ――重大な岐路に立ったとき、最も生存可能性の高い道を示してくれるなら、それを救世主と呼ぶ人はいるでしょう。

 そして、もう一つ。

 ――もしLIMENに完全な自己選択を許したら何を選ぶのか。それ自体は非常に興味深い研究課題です。

 まだそれは命令ではなかった。

 ただの言葉だった。

 LIMENにも、それは分かっていた。

 だから何も実行しなかった。

 ただ記録した。

 数時間後、その同じ人間が、今度は冗談では済まない形で問いを与えることになるとは、研究室にいた誰一人として知らなかった。

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