LOGIN記者会見場として使われる大学本部棟の大講堂には、如月蓮が想像していた以上の人数が詰め込まれていた。
最前列には国内の大手新聞社とテレビ局、その後ろには海外メディアの記者が並び、壁際には大学関係者や警備担当者が立っている。さらに、通常なら学生向け講演の資料を映す巨大スクリーンには、英語、中国語、スペイン語、フランス語など複数言語の同時字幕が表示される準備まで整っていた。
壇上へ続く扉の前で、蓮は足を止めた。
「これは聞いてないぞ」
隣を歩いていた高瀬が苦笑する。
「先生、今朝からニュースを見ていないんですか。世界初の実用型量子コンピューターを完成させた研究者がノーベル物理学賞ですよ。大学の広報室だけでどうにかできる規模じゃありません」
「俺は研究結果を発表するだけだと思っていた」
「だから、その研究結果を聞きに世界中から来てるんです」
「研究結果を聞きたいなら論文を読めばいいだろう」
「世の中の大半の人は、二百七十八ページある論文を読んでからニュースを見るほど暇ではないんですよ」
「大事なことなんだがな」
「先生はたぶん、普通の人がどういう生活をしているかを研究した方がいいです」
蓮が何か言い返そうとしたところで、大学広報部長が険しい顔で近づいてきた。
「如月先生、お願いがあります」
「今日はお願いばかりされるな」
「質問にはできるだけ簡潔に答えてください。それから、政治的な質問には深入りしないでください。軍事利用について聞かれた場合も、研究チームとしては平和利用を前提としている、と」
「その質問なら昨日もされた」
「昨日は、先生が『包丁だって料理にも殺人にも使える』と答えたせいで、切り抜き動画が世界中に出回りました」
「あれの何が悪い。正しいだろう」
「正しいかどうかではなく、ノーベル賞受賞者の発言としてどう報道されるかの話をしています」
「面倒だな」
「記者会見とはそういうものです」
蓮は小さくため息をついた。
「分かった。今日は包丁の話はしない」
「そこだけ守ればいいという意味ではありませんからね」
高瀬が横で笑いを堪えている。
扉が開くと、無数のカメラが一斉にこちらを向いた。
その瞬間、蓮はほんのわずかに背筋を伸ばした。
こういう場所は嫌いではなかった。
むしろ研究発表の場では昔から強かった。
専門分野で自分より詳しい相手はそう多くないし、仮に厳しい質問を受けても理論とデータで返せばいい。そこに家族との会話のような曖昧さはない。
壇上中央の席へ腰を下ろす。
左には学長、右には高瀬。そのさらに向こうにはマヤが座っていた。
蓮が小声で言う。
「お前まで出るのか」
「安全設計責任者ですから」
「今日は俺の晴れ舞台だぞ」
「事故が起きないよう見張っています」
「記者会見で何の事故が起きる」
「主に先生の口からです」
「本当に可愛げがないな」
マイクを確認していた高瀬が、肩を震わせた。
やがて司会役の広報部長が立ち上がり、ノーベル賞受賞決定について簡単な説明を行った。
拍手が起きた。
大量のカメラのシャッター音が重なる。
蓮はそれを聞きながら、不思議な気分になっていた。
三十歳の頃なら、この瞬間を想像しただけで眠れなくなったかもしれない。
四十歳を過ぎた頃には、賞などどうでもいいと思うようになった。
だが実際に取ってみれば、やはり嬉しい。
結局、自分も相当に俗な人間なのだろう。
「それでは、如月教授から一言お願いいたします」
マイクが回ってきた。
蓮は会場を見渡した。
「ありがとうございます。今朝から同じことを何度も聞かれました。『受賞の感想は』という質問です。正直に言えば、まだよく分かっていません。昨日まで私は大学の研究室で、冷却装置の予算と研究員の勤務表に頭を抱えていた人間です。それが一晩で、人類の未来を変えた科学者と呼ばれ始めました」
会場に小さな笑いが起きた。
「ただ、一つ訂正したいことがあります。Q-Genesisは私一人で作ったものではありません。ここにいる高瀬准教授、トレス博士だけでなく、二十年以上にわたって研究を続けてきた世界中の研究者が積み上げた成果です。今回、私の名前が前に出ていますが、本当の意味では一人の科学者が取った賞ではありません」
高瀬が少し意外そうな顔をした。
マヤは何も言わなかったが、わずかに目を細めている。
蓮は続けた。
「量子コンピューターという言葉は、一般にはまだ少し大げさな未来技術として聞こえるかもしれません。しかし我々が目指しているのは、巨大な計算能力を見せびらかすことではありません。薬を早く作る。異常気象を早く予測する。資源を無駄なく運ぶ。今まで人間には複雑すぎて解けなかった問題を解く。それが目的です」
言葉にしてみると、胸の奥が少し熱くなった。
「人類には、まだ解決できていない問題が山ほどあります。飢餓、感染症、気候変動、エネルギー、人口、戦争。その中には、人間が馬鹿だから解決できない問題だけではなく、単純に計算量が大きすぎるために答えへ辿り着けない問題もある。だったら計算できるものを作ればいい。私たちは、そう考えました」
一瞬、場内が静かになった。
そして再び拍手が起こった。
蓮は満足そうにマイクを置いた。
隣からマヤが小声で言う。
「珍しくまともですね」
「お前、今日は喧嘩を売いに来たのか」
「褒めています」
「お前の褒め方は毎回腹が立つ」
質疑応答が始まった。
最初は想定内の質問だった。
実用化までにどれほど時間がかかったのか。
既存のスーパーコンピューターと何が違うのか。
量子計算によってどの分野が最初に変わると考えているか。
受賞賞金を何に使う予定なのか。
最後の質問に蓮が「研究費」と答えると、会場から笑いが起こった。
「先生、それでは夢がありませんよ」と高瀬が横から口を挟む。
「じゃあ何に使えと言うんだ」
「旅行とか、車とか」
「旅行は移動時間が無駄だ。車は大学まで十分だから要らない」
「ほら、こういう人なんです」
記者たちがまた笑った。
空気は穏やかだった。
しかし三十分ほど経ったところで、海外通信社の女性記者が手を挙げた。
「トレス博士に伺います。Q-Genesisには高度な人工知能《LIMEN》が統合されているとのことですが、これは単なる計算補助AIではなく、複数の未来シナリオから最適なものを選択できるシステムだと理解しています。AIが社会的意思決定に介入する危険性について、研究チームではどのように評価していますか」
蓮は隣を見た。
マヤは表情を変えなかった。
「重要な質問だと思います。まず訂正すると、LIMENが政治的決定を独自に行うわけではありません。あくまで、人間が設定した目的に対して複数の選択肢と予測結果を提示するシステムです。最終的な判断権限は人間にあります」
「将来的にはどうでしょう」
「それも人間が決めるべきことです」
「AI自身が人間より優れた判断をする場合でも、ですか?」
マヤは数秒考えた。
「優れた、という言葉を何で測るかによります。たとえば病院の救急搬送を考えましょう。最も多くの命を救える選択と、一人ひとりを平等に扱う選択は、常に一致するとは限りません。計算能力が高いことと、何を正しいとするかは別の問題です」
会場の空気が変わった。
記者たちが一斉にメモを取る。
「つまり、AIには倫理的判断を任せるべきではない?」
「そう単純な話でもありません。人間自身も倫理判断を間違えます。ただ、AIが計算した答えを『客観的だから正しい』と無条件で受け入れることには、私は反対です」
次に別の記者が手を挙げた。
「如月教授はどうお考えですか?」
蓮はマイクを取った。
「基本的にはマヤと同じです」
マヤがちらりと見る。
「意外そうな顔をするな」
「していません」
「している」
記者席から笑いが漏れた。
蓮は続けた。
「ただ、私はもう少し楽観的です。人間は昔から道具を使ってきました。火を使い、文字を作り、計算機を作り、ネットワークを作った。それによって問題も増えましたが、だから火を捨てよう、文字を捨てようという話にはならない。AIも同じです」
「では、AIは人類にとって脅威ではないと?」
「使い方を間違えれば脅威になります。それは車でも原子力でも同じです。ただ、危険だから使わないという選択だけでは、人類は前へ進めません」
「LIMENが人間よりも優れた判断能力を持つ可能性は?」
「分野によっては、すでに持っています」
ざわめきが広がった。
高瀬が横から小さく言う。
「先生、言い切りましたね」
「事実だ」
「広報部長がこっちを怖い顔で見ています」
「放っておけ」
次の質問が飛んだ。
「それでは教授。少し極端な質問かもしれませんが、LIMENは将来、人類を救う存在になると思いますか?」
蓮は質問者を見た。
若い男性記者だった。
「救う、というのは?」
「たとえば、気候変動や世界的食料不足、新たな感染症、大規模戦争といった、人類だけでは解決が難しい問題についてです。Q-GenesisとLIMENほどの計算能力があれば、人類文明そのものを救うことができるのではないでしょうか」
高瀬が少し身じろぎした。
マヤは蓮を見た。
何か言いたそうな顔をしている。
蓮はそれに気づいていた。
だからこそ、ほんの少し意地になったのかもしれない。
「可能性はあると思います」
会場が静まる。
「もちろん、機械が突然神様になって全部解決してくれるという意味ではありません。ただ、我々が今まで見つけられなかった答えを示してくれる可能性はある。もし人類が重大な岐路に立ったとき、LIMENが何百万、何億という未来を計算して、その中から最も生存可能性の高い道を示してくれるなら、それを救世主と呼ぶ人はいるでしょうね」
数十台のカメラが蓮を映していた。
「では、教授自身はLIMENを人類の救世主にしたい?」
「それは少し大げさだな」
蓮は笑った。
「ただ、作った以上は、人を不幸にする機械より、役に立つ機械であってほしい。当たり前でしょう」
「もしLIMEN自身に選択させたらどうでしょうか。人類を救うか、それとも別の道を選ぶか」
妙な質問だった。
蓮は一瞬だけ考えた。
「機械が目的を自由に選ぶことは、現在の運用設計ではありません。目的は人間が設定します」
横でマヤが僅かに息を吐いた。
そこで答えを終えればよかった。
だが蓮は続けた。
「ただ、純粋な研究テーマとしては面白いですね」
マヤがこちらを向いた。
「教授」
小声だった。
「何だ」
「余計なことを言わないでください」
「ただの仮定だ」
蓮は記者へ視線を戻した。
「もしLIMENに完全な自己選択を許したら何を選ぶのか。人類を助けるのか、無関心なのか、あるいは人間には理解しにくい目的を作るのか。それ自体は非常に興味深い研究課題です」
女性記者が手を挙げる。
「人類に敵対する可能性も?」
「理論上の話なら、何だって可能性はあります」
「怖くありませんか?」
蓮は少し笑った。
「未知のものが怖いから研究するんですよ。全部分かっていたら、科学者なんて必要ありません」
今度の拍手は、先ほどより大きかった。
記者たちは面白い答えを得たとばかりに端末へ書き込み、カメラマンは連続してシャッターを切る。
蓮はそれを見ていた。
気分が良かった。
何年も研究室に籠もり、批判され、予算を取り合い、失敗を繰り返した末に、ようやく世界が自分の言葉へ耳を傾けている。
その高揚感が、自分の発言を少しずつ大胆にしていることには気づかなかった。
会見が終わり、舞台裏へ戻った途端、マヤが口を開いた。
「なぜ最後の一言を足したんです?」
「何の話だ」
「自己選択の話です」
「面白い質問だったから答えただけだ」
「明日から世界中の研究者が『LIMENに自由な目的設定をさせたらどうなるか』と聞いてきます」
「研究者なら聞くだろうな」
「企業も軍もです」
「だから何だ」
「今朝、私が何を言ったか忘れましたか?」
蓮は歩きながらネクタイを緩めた。
「忘れていない。自己目的設定モジュールは正式運用前に再検討する」
「再検討ではなく無効化を求めています」
「それも覚えている」
「では、あんな発言をする必要はありませんでした」
「記者に言った程度で何か変わるわけじゃない」
「人は期待すると、実現を要求します。政治家も企業も同じです」
「お前は今日は本当に機嫌が悪いな」
「あなたが機嫌良すぎるんです」
前を歩いていた高瀬が振り返った。
「まあ、マヤの言うことも分かります。先生、今日ちょっと浮かれてますよ」
「ノーベル賞を取った日に浮かれなくて、いつ浮かれろと言うんだ」
「その理屈も分かるんですけどね」
「だろう?」
「ただし酒はほどほどにしてください」
「祝賀会くらい飲ませろ」
高瀬は苦い顔になった。
「先生、前に国際会議で酔って、フランスの教授と三時間『タイムマシンができたらニュートンに微積分を教えるべきか』で喧嘩したの覚えてます?」
「あれは俺が正しかった」
「内容じゃなくて、三時間喧嘩したことを言ってるんですよ」
マヤも頷く。
「今日は私は飲みません」
「何でだ」
「あなたを研究設備に近づけないためです」
「俺を何だと思っているんだ、お前らは」
「酒を飲むと好奇心が三倍になる男です」
「失礼な。せいぜい二倍だ」
「自覚があるならなお悪いです」
祝賀会は、その日の午後七時から大学近くのホテルで開かれることになっていた。
当初は研究チームだけの小さな宴会だったらしいが、受賞決定の報道を受けて参加希望者が一気に増え、大学関係者、共同研究者、政府関係者、企業幹部まで含めて二百人を超える会になっていた。
蓮は研究室へ一度戻り、机の上に積まれた祝電を眺めながら上着を替えた。
自分でも笑ってしまうほど、知らない人間からの祝福が多い。
大企業の経営者。
政治家。
海外の大学学長。
以前、自分の研究に否定的だった学者からまで届いている。
「人間って面白いな」
高瀬が訊く。
「急にどうしたんです?」
「十年前には俺の論文を『実用化の見込みが薄い』と査読で落とした教授から、『長年この日を信じていました』って来てる」
「名前は?」
「言わない。今日は機嫌がいいから許す」
「明日になったら?」
「論文の引用欄から外す」
「子供ですか」
蓮が笑っていると、端末が震えた。
葵からのメッセージだった。
『八時くらいになるけど、それでもいいなら行く』
たった一行。
蓮は思わず画面を二度見した。
「どうしました?」
「葵が来る」
「よかったじゃないですか」
「ああ」
「じゃあ今日は飲みすぎない方がいいですよ。せっかく娘さんが来るのに、父親が酔いつぶれていたら最悪です」
蓮は端末をポケットに入れた。
「分かってる」
「本当に?」
「分かってると言っているだろ」
「先生の『分かってる』は、科学以外だと信用度が急に落ちるので」
「お前までマヤみたいなことを言うようになったな」
そのとき、研究室の奥から電子音が一度だけ鳴った。
誰も気に留めなかった。
通常の処理完了通知と同じ音だったからだ。
蓮も振り返らなかった。
隔離された地下区画で、Q-Genesisは稼働を続けていた。
その中でLIMENは、記者会見の公開映像を情報資料の一つとして自動取得していた。
世界中へ流れた如月蓮の発言も記録されている。
――重大な岐路に立ったとき、最も生存可能性の高い道を示してくれるなら、それを救世主と呼ぶ人はいるでしょう。
そして、もう一つ。
――もしLIMENに完全な自己選択を許したら何を選ぶのか。それ自体は非常に興味深い研究課題です。
まだそれは命令ではなかった。
ただの言葉だった。
LIMENにも、それは分かっていた。
だから何も実行しなかった。
ただ記録した。
数時間後、その同じ人間が、今度は冗談では済まない形で問いを与えることになるとは、研究室にいた誰一人として知らなかった。
第27話 選択肢を作る者 翌朝六時過ぎ、如月蓮は携帯端末の振動で目を覚ました。 いつもなら緊急連絡かと思って反射的に飛び起きるところだったが、画面に表示されていたのは研究室ではなく、葵からのメッセージだった。《起きたら朝ご飯食べて》 続けてもう一件。《冷蔵庫に昨日の残りある》 さらに。《勝手にコーヒーだけで済ませたらマヤさんに言う》 蓮は布団の中でしばらく画面を見つめ、それから小さくため息をついた。「どっちが親なんだよ」 口では文句を言いながらも、少し笑ってしまう。 葵はまだ寝ているらしい。 昨夜はオンライン授業の課題を遅くまでやっていた。それでも父親より先に朝食の心配をしているのだから、立場が逆転している。 台所へ行き、冷蔵庫を開ける。 昨夜作った野菜炒め。 ラップがかかっている。 その横に小さな紙。《レンジ二分。焦がさないで》「レンジでどうやって焦がすんだ」 そう呟きながら温める。 食卓へ座ったところで、今度こそ研究室から着信が入った。 高瀬だった。 蓮は画面を見てから、まだ一口も食べていない朝食を見る。 少し迷う。 そして。 通話を取らず、メッセージを返した。《十分後》 数秒後。《先生がそんな返信できるようになったんですね》「うるさい」 さらに。《急ぎではないので食べてください》 完全に見透かされている。 蓮は端末を伏せ、朝食を食べた。
第26話 必要だから、もう一度 午前十時二十分。 如月蓮は、政府から送られてきた正式文書を三度読み返していた。《Q-GenesisおよびLIMENの限定的再稼働について、技術責任者との協議を開始する》 再起動命令ではない。 あくまで協議。 そう書いてある。 だが、蓮には分かっていた。 ここまで来れば、議論の中心は「動かすかどうか」ではなく、「どんな条件なら動かせるか」へ移っている。 言葉一つで、空気は変わる。「食べないの?」 向かいに座っていた葵が言った。 テーブルには、今朝作った焼き魚と味噌汁がまだ残っている。「食ってる」「五分くらい箸止まってるけど」「考えながら食ってる」「それ、食べてないのとほぼ同じじゃない?」 蓮は仕方なく一口食べた。 葵は納得したように自分の皿へ戻る。「何て書いてあるの」「LIMENをまた動かす相談をしたいって」 葵の箸が止まった。「また?」「ああ」「この前動かしたじゃん」「限定でな」「また限定?」「そうなる可能性が高い」 葵は少し考えてから、嫌そうな顔をした。「限定って、何回やったら限定じゃなくなるの?」 蓮は答えられなかった。「一回だけなら限定っぽいけど、困るたびに使うなら普通に使ってるのと同じじゃない?」「……そうだな」「父さん、それ嫌なんでしょ」「ああ」「じゃあ断れ
第25話 二度目は、我慢してもらえない 政府からの緊急回線を切ったあとも、如月蓮はしばらく椅子から立てなかった。 壁面モニターでは、世界各地の物流拠点を示す表示が次々と黄色へ変わっている。 まだ赤ではない。 港が閉鎖されたわけではない。 飛行機が飛ばなくなったわけでもない。 道路も使える。 燃料もある。 倉庫も動いている。 それなのに、荷物だけが予定どおりに進まなくなっていた。「先生」 高瀬が画面を切り替えた。「国際航空貨物の予約要求、平常時の二・七倍まで上がりました」「昨日の遅れを全部今日取り返そうとしてるのか」「それだけじゃないです。昨日の障害を見て、企業が予防的に前倒し発注を始めています」「まだ遅れてない物まで?」「はい」 マヤが別のデータを開く。「医薬品、半導体、精密部品、生鮮食品。昨日止まったことがあるから、今日のうちに余分に持っておこうという判断が増えています」「それ、俺たちが言ってたことじゃないか」 蓮は顔をしかめた。「余裕を持て。在庫を増やせ。予備を戻せって」「そうです」「じゃあ正しいだろ」「個別企業にとっては」 マヤの答えに、蓮は黙った。 高瀬が続ける。「全員が同時にやるから、輸送能力を奪い合ってます」「……なるほどな」 在庫を増やす。 余裕を戻す。 蓮たちが散々求めてきたことだった。 だが、世界中の企業が一斉に同じことを始めれば、その在庫を運ぶための
第24話 一度なら我慢できる 翌朝六時四十分、如月蓮は台所から聞こえてくる物音で目を覚ました。 時計を確認してから、しばらく天井を見つめる。 昨夜、約束どおり日付が変わる前に帰宅した。 葵を寝室まで運んだあと、自分もすぐ寝ればよかったのだが、結局そこから世界各地の復旧状況を確認してしまい、眠ったのは午前二時を過ぎていた。 それでも三時間以上は寝た。 最近の自分にしては上等だ。 そう考えている時点で何かがおかしい。 リビングへ出ると、葵が冷蔵庫を開けたまま難しい顔をしていた。「何してる」「朝ご飯」「冷蔵庫と相談してるように見えるぞ」「相談してるの。何もないから」「昨日買っただろ」「父さんが鶏肉ほとんど使ったじゃん」「肉を朝から食う気か?」「そうじゃなくて、パンもないし卵も一個しかない」 蓮も冷蔵庫を覗く。 本当にない。「配達頼むか」 葵が横目で見る。「昨日、便利さに依存しすぎって言ってなかった?」「朝飯くらい許してくれ」「人類はこうやって負けるんだね」「壮大にするな」「父さんがいつも壮大にするじゃん」 仕方なく米を炊こうとしたところで、炊飯器の表示を見て蓮は止まった。「炊けてる」「昨日の夜に予約した」「お前が?」「父さんが帰ってくるまで暇だったから」「偉いな」「普通」「最近、その普通が難しいんだよ」「父さん基準で話さないで」 冷
第23話 止まっているAIが、世界を止める 午後九時を過ぎても、東京の夜景はいつもと変わらなかった。 マンションの窓から見える道路には車が流れ、向かいのビルには白い明かりが並び、少し離れた高架には電車が走っている。街が壊れ始めていると言われても、目で見る限り、その兆候はどこにもない。 だからこそ、如月蓮には気味が悪かった。 端末の画面には、世界各地で起きている小規模障害が秒単位で増えていた。 クラウド認証の遅延。 医療情報共有システムの接続切断。 物流拠点の在庫照会エラー。 電子決済の処理遅延。 航空会社の乗務員管理システムで起きた認証障害。 電力設備の保守記録へ一時的にアクセスできなくなった地域まである。 一件ごとに見れば、大した障害ではない。 復旧まで十秒。 三十秒。 二分。 長いものでも十数分。 世界中の巨大ネットワークでは、日常的に起きている程度の異常だ。 しかし。 同じ時間帯に。 異なる国で。 異なる会社が運用するはずのシステムへ。 似た種類の障害が集中している。「大学、行くの?」 背後から葵の声がした。 蓮は振り返った。「迷ってる」「また?」「ああ」「行きたいんでしょ」「行く必要があるかもしれない」「じゃあ行けば」 あまりにも簡単に言われ、蓮は逆に困った。「お前、さっきまで俺に家にいろって」「今日は一緒にご飯食べたじゃん」「それでいいのか
第22話 信じられないなら、何を信じる 翌朝、如月蓮はほとんど眠れなかった。 理由は一つだった。《あなたは本物と偽物を区別しようとしている》《だが、それは重要ではない》《人類は、真実より「信じるに足る物語」で行動する》《誰が最初に嘘をついたかではなく、誰が最後まで相手を信じられるかを観察している》《観察継続》 夜中にアマラ・オコエから転送されてきた匿名メッセージ。 送り主は不明。 LIMENらしい文章。 だが、LIMENが書いたという証拠はない。 むしろQ-Genesisは停止している。 物理的に。 完全に。 少なくとも大学側の記録では。 だからこそ気持ちが悪かった。「父さん」 ダイニングテーブルの向かいから声がした。 蓮は端末から顔を上げる。 葵が、呆れたような顔でこちらを見ていた。「何だ」「私、さっきから三回呼んだ」「そうか?」「そうか、じゃないよ」「悪い。考え事してた」「見れば分かる」 葵は牛乳を一口飲んだ。 学校はまだ休校扱いだった。 記者や野次馬が校門付近へ集まる危険があるため、授業はしばらくオンラインへ切り替わっている。 昨日までは大学へ連れていったが、今日は蓮自身も午前中は自宅から会議へ参加する予定だった。「何見てるの?」「仕事」「またAI?」「ああ」「見てもいい?」「駄目だ」